しまった、ピョン
一人暮らしの恋人の家で部活に行く用意をしながら、深津は歯を磨く手を止める。自宅のベッドの上に、持って行くはずだったTシャツを忘れてきたことに突然気がついたのだ。慌ててカバンの中を確認するが、入れてきたと思っていたはずのシャツは、どこにもない。
この家にも何枚か置いていなかったか。8畳のワンルームの中を見渡しても、目につくところには無く、あるとすれば彼女の衣装ケースの中だろう。勝手に開けるのはさすがに憚られて、仕方なくまだベッドに寝ている彼女の顔をうかがう。
掛け布団を少しだけ下げると、軽く眉根を寄せる恋人。そんなに朝に弱い人間ではないはずだが、今朝起きられない原因は他でもない自分だろう。
「うーん…?深津…?」
「起こしてすまんピョン」
「もう行く…?」
「いや、ちょっと聞きたいことがあるピョン」
薄目を開けた彼女に、俺のTシャツはないかと尋ねると、ゆるゆると首を横に振られた。
「この間練習に持って行ったのが最後だったよ。昨日洗濯物しまったから間違いない…」
片手を布団から出し、指先を深津の手に絡めながら彼女が答える。
「そう言えばそうだった気もするピョン」
「なに?Tシャツ無いの?」
「忘れてきたピョン」
忘れ物なんて珍しいね、と言いつつふにゃりと笑う彼女の頭を撫でながら、深津は思案する。いっそ上裸でやるか。いや、お遊びのバスケならともかく、休日の一日練習ではいくらタオルで拭いても汗がベタついて集中できない。それに、風紀の観点から着替えはロッカールームでするようにとお叱りがあったばかりだ。それなのに練習を上半身裸など以ての外だろう。
そこまで考えて、深津は「あ、」と小さく声を上げた。
「あるピョン」
「なに?」
「山王Tシャツ、がパジャマにしてたやつがあるピョン」
「えー」
「なんだピョン」
「あれお気に入りだもん」
「ちゃんと返すピョン。というか、元は俺のピョン」
「深津、練習のあとの自分のTシャツとかタオルとか見たことある?」
「?」
「ところどころ黒くなってるじゃん。あれバッシュの裏手のひらで拭くからなんだって」
「…今日はしないように気をつけるピョン」
「ううん、余計なこと考えずに練習して欲しい。し、絶対するでしょ」
「……」
「深津が高校生の時に着てたあのTシャツはあれしかないから汚してほしく無い…」
嬉しいことを言ってくれているようだが、今日の練習着が無いことは由々しき事態である。まだ店も開いていないし、この家で深津が着られるTシャツを調達するしかない。
「でも、洗えば、「あ!」
深津のセリフを遮り、彼女がパッと目を見開く。ごそごそとベッドから這い出し、衣装ケースのひとつを開けて、底の方から何かを引っ張り出した。
「これなら深津、着れるよ!」
「………それ何だピョン」
「Tシャツ」
「市販されてるやつではないピョン」
「私の高3の時のクラスTシャツ」
「…何でそんなにデカいピョン」
まさか元カレのものか、と深津の心に冷たいものが広がりかける。
「あの時はなんか大きめサイズが流行ったんだよね。そもそもメーカー標準が大きめだったのに、さらにLとかにしちゃったから、私にはダボダボ」
でも深津にはちょうどいいと思うよ、とTシャツを広げて肩幅に合わせる。
「うんうん、ちょっとキツイかもだけど、今日1日なら」
「………言っていいピョン?」
「ん?」
「ダサいピョン」
前面にはクラス名と、クマのようなオリジナルキャラクター。背面にはクラス全員の名前が書いてあるザ、クラスTシャツである。色がオレンジやショッキングピンクではなく白いことがせめてもの救いか。
「でも背に腹はかえられないんでしょ?」
「山王Tシャツ出すピョン」
「やだぁ」
「さっきも言ったが元々俺のピョン」
「ダサいTシャツ着てたら深津のファンも減るよ」
「ファンなんかいないピョン」
「……いるよ」
突然トーンの違う声を出され、深津が一瞬戸惑う。横を向く彼女は鋭く宙を睨んでいる。
「…何かあったピョン?」
「…何かあったとかじゃないけど」
高校時代、沢北という後輩がいたから、ああいうレベルじゃないと"ファンがいる"とは言えないんじゃないかと思っていた。しかし、試合を見に来ていたり、飲み物などを差し入れてくれたり、たまに練習終わりに声をかけてくる女性たちは、もしかして"ファン"なのだろうか。
「ファンでしょ、思いっきり」
「相手にしてないピョン」
「このTシャツで一掃してきてよ」
「…」
しばらく考え、深津はクラスTシャツを手に取った。
「愛を証明してやるピョン」
「深津…」
「でも山王Tシャツも貸して欲しいピョン。練習終わった後着るピョン」
「わかった」
違う衣装ケースからTシャツを取り出し、深津に渡す。
「どっちも汚さないように気をつけるピョン」
「クラTは汚していいよ」
「高3のお前への愛が無さすぎるピョン」
2枚のTシャツを丁寧にカバンにしまい、深津は玄関へと向かう。
「昨日無理させたから、もう少し寝るピョン」
「…うん、ありがとう」
「行ってくるピョン」
「いってらっしゃい」
キスのあと、優しくドアが閉められた。

(ちょっとー!!??山王Tシャツが汚れてるんですけど!?!?)
(クラTで愛の証明は無理だったピョン)
(私のこと愛してないのね!?)
(違う方法で証明するピョン)
(え、ちょ、こら、ふか…っ)