まだまだ冷たい風が吹き、私は思わずストールを強めに巻き直した。
私の最寄駅まで深津が来てくれて、一緒に切符を買って改札を通る。
今日はいよいよ深津が秋田を離れる日だ。
本当は空港まで見送りに行きたかったけど、さすがに往復するとなると距離もあるし、帰りが1人で心配だと深津に反対されて、秋田駅までの見送りにさせられてしまった。


「バスケ部の人は来ないんだね」
「あいつらもほとんど今日が出発ピョン」


リュックひとつという、信じられないくらい身軽な格好で深津が電車の来る方向を眺めている。
引退した時よりだいぶ伸びて、もう坊主頭とは言えない彼の横顔は、いつもと同じ表情だ。
バスケ部員の中には、深津と同じ関東の大学に進学した人もいれば、中部や関西に行く部員もいるらしい。もちろん進学せずに就職した部員もいる。
一緒に濃い3年間を過ごした彼らも、それぞれの場所で新生活だ。


「バスケをしてればまたどこかで会うピョン」


信頼できる仲間だった彼らとは、今度は手強いライバルとして会うかもしれない。その時何を思うのかわからないが、どうやら深津が楽しみにしているのは確かなようだ。


「バスケ部の話はやめるピョン。今はのことだけ考えるピョン」


だから、も俺のことだけ考えろピョン、と深津が私をまっすぐに見据えて、ゆっくりと手を取った。軽く引っ張られて深津との距離が縮まる。
恋人つなぎではなくて、深津の大きな手に包み込まれるつなぎ方が好きだ。何の気なしにその話をしてから、ずっと深津は優しく私の手を包んでくれる。

電車に乗り込んで、ガラ空きの車内に並んで座る。
この3月の短い間に、何回か街へ買い物に行くのに使った電車だ。高校時代、この電車や駅で、深津とも偶然会ったことがある。

私はこれから、しばらくひとりでこの電車を使うんだ。
もう、深津と偶然会うことはない。

ーー
ーーあ、え、深津じゃん。買い物?
ーーバッシュ買いに行ったベシ
ーーこの間も買ってなかった?
ーー一足じゃすぐボロボロになるベシ

一年生の時、深津のことを好きだと自覚してからすぐに鉢合わせた時は、ドキドキしながら会話した。
本当は深津が乗ってることには乗った時から気づいていたけど、会話するのに緊張して隠れていた。しかし、見つかって話しかけられてしまったのだ。


「あの時は、が乗った時から気づいてたピョン」
「うそでしょ!?」
「隠れてたのもわかってたピョン」
「はぁ!?」
「おもしろいからしばらく見てたピョン」
「性格わる…」


あの頃は、こうして手を繋いで電車に乗る未来があるなんて思ってもみなかった。
記憶の中の深津より、身長も伸びてたくましくなった肩越しに今の深津の横顔を眺める。
視線に気付いた深津がこっちを向いて、少しだけ口角を上げる。


「どうしたピョン」
「っ、な、なんでもない…」

時折見せてくれる優しい目は、3年経った今も何も変わらなくて、まだ出発したばかりなのにもう涙が出そうになる。
まだまだ電車には長く乗らなきゃいけないのに。
そんな私の気持ちを察してか、繋がれた手が、よりいっそう強く握られた。


「…あの頃にはもう好きだったピョン」
「え、!?」
「何でもないピョン」
「ちょ、え、うそ!?」


ボソリととんでもないことを深津がつぶやいた気がするのに、どれだけ詳細を追求してもいつもの無表情でのらりくらりと躱されてしまう。
しれっと爆弾を投下するのは深津の悪いところだ。
いろんな話をしていると、不意に手が解放された。
深津が飲み物を口に運ぶ。私もそれに倣って持ってきたお茶を一口飲んだ。


気がつけば、もうすぐ秋田駅だ。
アナウンスを聞いて、そもそもなぜ2人で電車に乗っているのかを思い出し、一気に現実が押し寄せる。
再び、優しく手が繋がれた。


「すぐ会いにくるピョン」
「うそ」
「なんでだピョン」
「予定表見たよ、土日も朝から晩まで練習だったじゃん」
「オフもちゃんとあるピョン」
「だめ。体を休めるのも練習のうちでしょ」
「…体が休まっても、に会えなかったら意味ないピョン」


今まで全然そんなこと言ってくれなかったのに、こんなところで、どうしてそんな嬉しいこと言ってくれるんだろう。思いっきり抱きつきたいのに、公共の場であることが恨めしい。嬉しいのに泣きたくなって、でも泣くわけにはいかなくて、口を開けると涙が引っ込むと何かで読んだのを思い出し、薄く口を開けて必死に呼吸をする。


「…4月はやっぱり慣れない生活でしんどいだろうからさ、手紙書くよ」

包まれていた手のひらが、外気に触れる。
ふわりと深津の手が頭に添えられて、深津の肩にこてん、と頭があたる。


「週末には少しだけかもしれないけど、電話しよっか。番号わかったら手紙で教えて。ゴールデンウィークは絶対深津の家に行くからね」
「待ってるピョン」


落ち着いて喋れているだろうか。
何か喋っていないと、しゃくりあげて泣いてしまいそうだ。寂しい。深津のいない場所でこれから日常を過ごしていくことが、たまらなく寂しい。
3年間、辛いことがあった時も深津の顔を見て、声を聞くだけでまた頑張ろうと思えた。何か具体的に言葉をもらうわけじゃなくても、深津と同じ授業を受けて、同じ場所で思い出を共有していることが心の支えになっていた部分が確かにあった。
同じ秋田で過ごしているならまだしも、遠い場所に行ってしまう深津とは、きっと毎日感じる天気さえも全然違う。


「…は、秋田以外で暮らすつもりはないのかピョン」
「え?…考えたことなかったな… 」
「そうかピョン」

なんでそんなこと聞くんだろうと思ったけど、まっすぐ前を向く深津の目を見たら、何となく深く聞かない方がいい気がして、同じように前を向いた。


電車が停車した。
車内アナウンスが、秋田駅に着いたことを知らせる。
いよいよだ。


「降りるピョン」
「…ん」


深津が私の頭を一撫でして、ちゅ、と軽く口付けた。
ぶわりと体中が粟立って、心臓がドキドキ音を立てる。
なんてさりげなくキザなことするんだろうこの人は。
照れる様子もなく網棚から荷物を下ろし、背負っている。


「顔赤いピョン」
「だっ…!!」


空港へのバスはすでに予約してあると言うので、遅れないように気をつけなければいけない。
改札を抜けてからは、深津に引っ張られるようにして駅の構内を歩いた。
口を開ければ涙が出ないなんて段階をとっくに超えていて、必死に別のことを考えながら、ただただ足を動かす。深津も黙ってまっすぐ前を向いて歩いている。


バスターミナルで、空港行きのバスの時間を確認し、人の通りの邪魔にならない位置に立つ。


、泣くなピョン」
「…泣いて、ない…っ」
「ほとんど泣き顔ピョン」


困ったような顔をして、深津が私の目尻の涙を親指で拭う。前にもこんなことがあった。卒業式だ。



「うん」
「正直、俺は4月からまたバスケで忙しいピョン」
「うん」
「なかなかのこと優先させてやれないかもしれないピョン」
「うん」
「でも、のことを好きなのは絶対に変わらないピョン」
「…うん」
「そこだけは、疑わないで欲しいピョン」
「うん、…深津」
「なんだピョン」
「だいすき」
「…俺もピョン」


一瞬だけ深津の眉間に皺が寄ったと思ったら、ぐっと腕を引っ張られた。目の前には、深津の着ていたコート。背中に感じる深津の腕。堪えきれなくてあふれた涙が、深津のコートに染みをつくってしまう。


「ね、まって、コートが…」
「そんなの気にしなくていいピョン」


離れようとしても、ますます強く抱きしめられる。


「寂しいのは、だけじゃないピョン」
「…ふか、つ…っ」
「5月、待ってるピョン」
「うん」


少しだけ腕の力が緩んで隙間ができて、顔を上げようとしたのと、顎が指先で引き上げられたのが同時だった。
重なった唇の熱に、一瞬何が起きたのかわからなくて瞬きを繰り返す。
気付いたら深津の顔が目の前にあって、いつもの無表情なのに、ほんの少しだけ耳が赤くなっている。


「…キス」
「…言わなくていいピョン」
「こんな、ところで、」
「今日は特別ピョン」


おもむろに深津がポケットをごそごそとあさり、何かを取り出して私の手のひらに乗せた。


「餞別ピョン」
「餞別?」


餞別って、普通逆なのでは?と思いながら手のひらに乗せられたそれを見ると、もう既に懐かしさすら感じる、制服のボタンだった。ボールチェーンが通してあって、キーホルダーみたいになっている。


「くれないって言ってたのに!」
「気が変わったピョン」
「ありがとう…ちゃんと第二ボタン?」
「多分そうだったピョン」
「多分!?」


軽やかに揺れるそれを、大事に手で包む。


「俺だと思って大事にするピョン」
「うん、そうする。ありがとう」
「どういたしましてピョン」


空港行きのバスがもうすぐ発車するというアナウンスが響いた。
深津がバスのチケットを手に用意する。


「…じゃあ、気をつけて」
も、気をつけて帰るピョン」
「うん、ありがとう」
「…5月なんて、すぐだピョン」
「…うん、そうだね」


優しい顔をして深津が私の頭を撫でてから、乗客の列に並んだ。
あっという間に深津の番が来て、乗務員さんがチケットを確認している。
二言三言かわし、深津が頷いてからバスのステップに足をかけた。
車内に入る前にこっちを振り向いて、手をあげる。
私も精一杯微笑んで、手を振る。
こちら側の席に座ってくれて、今度は軽く手を振ってくれる。慣れない土地でひとり暮らしていかねばならない彼の方が、抱える不安も大きいだろうに、最後まで私を心配するような表情を浮かべている。
泣き顔を見せていたら、ますます心配させてしまう。でも、無理矢理な笑顔なんて多分すぐ深津には見抜かれちゃうだろうな。
それでも、笑っている私を記憶していて欲しいな、と思って精一杯の笑顔を浮かべる。
口パクで「だいすき」と言ったら、深津が一瞬面食らったような顔をした。
もう一度、大袈裟に、ゆっくり口を動かしてみる。
珍しく、深津が微笑んでくれる。心底嬉しそうな顔だ。
そして、動く深津の口。え?なんて言ったの?もう一度、深津が少し恥ずかしそうに口を動かす。


「お、れ、も」?


深津が満足そうに頷いたところで、バスがゆっくりと動き出した。深津の顔が左方向に動いていく。
すぐにバスの背面しか見えなくなってしまった。
私、ちゃんと笑えていただろうか。
もうバスも見えなくなってしまった道路を見つめながら、今日1日の深津の手のひらのあたたかさ、頭に乗せられた手の重み、唇に触れた柔らかさを反芻する。


ーーのことを好きなのは、絶対に変わらないピョン


そして、手の中にあるボタンのキーホルダー。
ぎゅっと握りしめて、私は目尻に浮かんだ涙を拭った。
泣いても笑っても、この距離が覆ることはない。
それぞれの場所で、相手を想って頑張るだけだ。
私はくるりと踵を返し、深津に引っ張ってもらいながら歩いてきた道を、今度はひとりで駅のホームまで向かった。











今日のつづきで会いましょう