慌ただしく過ごした3月も半ばが過ぎ、いよいよ明日は深津が退寮して地元に帰る日だ。
1週間ばかり実家で過ごし、関東の一人暮らしのアパートに引越しをするらしい。
おおかたの荷物は既に発送済みで、今日は河田の家にバスケ部のいつものメンバーで集まるそうだ。バスケ部のスタメンの面々も、秋田から出て進学する予定の人ばかりで、最後の時間を過ごすんだろう。
夕方から河田の家に行くということで、お昼からうちに寄ってくれた深津とベッドに並んで座りながらそんなことを話す。
「は、この間の同期との顔合わせどうだったピョン」
「うーん、同期は女の子ひとりもいなくて、さすがにちょっと心細いかなぁ」
「…ひとりも?」
「うん、女子は私だけだった。あとは全員男の子」
「…」
それなりに大きい企業だから、違うエリアには女子はいるんだろうけど、私の配属エリアは8人いる中、女子は私だけだった。
「でも、みんないい人そうだったよ…深津?」
「…いや、いい人そうに見えても、気をつけるピョン」
「気をつけるって何に?」
「横恋慕とか」
「横恋慕?」
深津の口からおもしろい単語が出てきて思わず笑ってしまったが、深津は眉ひとつ動かさずいつもの真顔を向ける。
「笑ってる場合じゃないピョン」
「だって、あの男女比の高校で3年間なーーんにもなかったんだよ、私」
ないない、と手を振る私に深津が何か言いたげな顔をして、押し黙る。
「本当にそう思ってるピョン?」
「え?」
ふわりと私を後ろから抱きしめて、深津が私の耳もとで囁く。
「本当に学校のやつらが誰もを好きじゃなかったって思ってるピョン?」
「えっ、な、ふか、つ…?」
耳たぶに深津の唇が触れて、くすぐったさに身をよじるが、体に絡む腕がそれを許してはくれない。
そのまま顎をつままれて、深津の方に顔が向けられる。
「…ッ、ちか、いよ…」
「質問に答えるピョン」
「え…?」
えーと、誰も私のこと好きじゃなかったと思うのか、て?
「だ、だって、告白されたことないし」
「告白しなくても、ひそかに思ってた奴がいるかもしれないピョン」
「そんな人いないでしょ!」
クラスのみんなは、確かに優しかった。
いま思えば、深津がいる時は深津が助けてくれることが多かったけど、選択授業で深津がいない時は、ノート見せてくれたり、重いもの運んでくれたり。
でもそれは、クラスに一人しかいない女子に対する優しさであって、好意を感じたことなんて一度もなかった。
そう深津に説明しても、まだ納得していないらしい。
目線を左に向け、しばらく考えた後、また私を見据える。
「クラス以外ではどうだピョン」
「クラス以外…?」
帰宅部だった私は、基本的にクラスメイトか、他クラスの女子としかほとんど学校で関わっていないので、そもそも具体的な人が思い当たらない。
例外があるとすれば、深津と同じクラスだった故に知り合う機会のあったバスケ部の面々くらいだ。
「2年の夏の球技大会ピョン」
「2年の夏…?」
そういえば、体育館でバスケの決勝戦見てて軽い熱中症になった私を、保健室まで連れて行ってくれた隣のクラスの男子がいた。
「…そういえば」
「あの時、俺は試合に出ててどうすることもできなかったピョン」
「うん、だって深津を見に体育館行ったもん」
「が調子悪そうなのはわかってたけど、試合が終わるまで持ってくれって願ってたピョン」
「そうだったの!?」
「ずっとの側を離れない怪しいヤツがいたから、そっちも心配してたら、案の定保健室までついて行きやがったピョン」
「ついて行きやがったって…」
心配して連れて行ってくれた男子に対してひどい言い草だ。
「でも、その後お茶だ映画だってしつこかったピョン」
「…言われてみれば」
保健室に連れて行ってくれたまではよかったのだけど、その後深津が優勝の結果報告に来るまでずっと離れず、放課後は一緒に帰ろうと言われたり、その後は映画に誘われたりしていちいち断るのに辟易したことがあった。
「で、でも、そういうのはあの人くらいで…」
「3年になって最初の席替えでの前の席になったあいつ、覚えてるピョン?」
「最初の席替え??」
必死に記憶を辿るが、何せ3年間同じクラスだし、いちいち誰が前の席だったかなんて覚えていない。
でも、誰であったとしても、クラスメイトからそういう感情を感じたことは無かったはずだ。
「何かと課題聞いたり、消しゴム借りたり、に話しかけてたのは、好きだからだピョン。あいつはそれまでの2年間忘れ物はほとんどしてないし、課題は聞かれる側だったピョン」
「そんな、の…」
深津の思い過ごし、と言いかけて口を閉じる。
最強山王バスケットボール部のキャプテンを務めたPGが、3年間同じ顔ぶれのクラスメイトの機微を感じ取らないはずがない。観察の時間はそれこそ、部活をしている時間よりずっと長い。
「授業中なら俺が気づかないと思ってたアイツには舐められたもんだったピョン」
「へ…?…ひぁっ!」
深津の言葉の真意を考える前に、うなじに唇が落とされて思わず声をあげる。
「が思ってるより、はたくさんの奴に狙われてたピョン」
「そ、そう、なの…?」
「俺がそう言うんだから間違いないピョン」
「…ん、ぁっ!」
今度は唇が首筋に降りてきて、反射的に深津の首に縋りつく。
後ろから抱きしめられていたはずが、いつの間にか深津の上半身が正面にまわっていて、私は抱きかかえられている状態だということに気付く。
「え、もしかして、」
「なんだピョン」
「私が高校生活で誰かから告られたりしたことがないのって」
「……今更気づいたピョン?」
「うそぉ!?」
すました顔で私を抱きかかえている深津をまじまじと見つめる。
「ふ、深津って」
「?」
「いつから私のこと…?」
「…内緒ピョン」
「だって、そんな、えぇ!?」
私だって、だいぶ早い段階から深津のことを意識していたけど、もしかして深津も一年生の時にはそんな風に思ってくれていたんだろうか。
それに、深津の牽制が効いたということは、他のみんなは深津の気持ちを知っていたということになる。
「…多分、クラスの奴らはの気持ちも知ってたと思うピョン」
「うっそぉ!?!?」
それなりに上手く隠していたと思ってたのに!?
若干哀れみの色を浮かべた深津の無表情を見て、ショックなのと恥ずかしいのとで口をパクパクさせることしかできない。思わず深津の肩に顔を埋める。
「一人しかいないクラスの女子のことは、それなりに気になるピョン。のことを好きでも、そうでなくても、誰かと喋ってる時に雰囲気が違うって気付くやつもいるピョン」
慰めるように深津が頭を撫でてくれる。大きな手がいつもなら心地よいのに、今はそれすら、3年間自分がこの手のひらの上で踊らされていた気分になって悔しい。
もうやだ、恥ずかしすぎる。当然深津はとっくの昔に気付いてたってことだ。必死に恋心を悟られまいとしていた私の言動なんて、滑稽だったに違いない。
「やだやだ、恥ずかしすぎる!誰にも言ってなかったのに!」
「痛いピョン」
首に回した腕をゆるめて深津の背中をポカポカと叩くと、全然痛くなさそうな深津の声が返ってくる。
「話が逸れたが、」
深津が私の肩をつかんで、そっと引き離し、顔を覗きこむ。
「4月から俺がいないから、心配だピョン」
「だ、大丈夫!私はずっと深津が…その…好きだよ!」
「そういうことじゃないピョン」
照れを乗り越えて発した好きだよ、の言葉をあっさりと無視して深津が続ける。なんなの、ちょっとは照れたりしてくれてもいいのに…口を尖らせる私にはお構いなしだ。
「の気持ちなんて気にせず押してくるやつがいると、が大変ピョン」
「そ、そんな人…」
「いないとは限らないピョン」
「そんな物好きな人いるかな?」
「…俺が物好きってことかピョン?」
「そ、そういうわけじゃないけど!!」
「…女子なら何でもいいっていう男がいるのも、残念ながら事実ピョン。その上で身近な場所にいる女がだったら、手を出そうとするやつは絶対いるピョン」
えーと、それは…つまり、
「…私のこと可愛いって言ってくれてるの?」
「優しくて警戒心がないからピョン」
「ちょっと!」
今度こそ、割と強めに深津の肩を叩くが、ペチン、という軽い音がしただけで深津は小鼻ひとつ動かさない。
むしろ私の手の方が痛い。
やけになり、深津の首元にぐりぐりと頭を押し付けながら尋ねる。
「深津は私のこと可愛いと思ってないの?」
「…彼氏が彼女のことを可愛いと思うのは当たり前だピョン」
拗ねた私の機嫌を取るように、深津が優しい声を出す。
さっきまでつれない返事ばっかりだったのに、この緩急の付け方が、本当にずるい。
「俺しか見れないのかわいい顔や、聞けない声もたくさん知ってるピョン」
「…ッ、!」
さらに耳元で意図的に官能的な声で囁かれれば、私はもう顔を赤くして深津の首に縋りつくしかなくなる。
「ば、かっ!」
「これから先もそれを知るのは俺だけでいいピョン」
そのままベッドに押し倒されれば、いつもより深津の瞳が深い色をしているように見えた。
独占欲と情欲があいまって、深津の無表情に浮かんでいる。ずっと、こんな目で見られていたんだろうか。
高校3年間、深津を見ていたはずなのに、知らなかった。
この目が、他の男子生徒への牽制になって、私を守ってくれていたなんて。
「今までは、それでいいピョン」
これからは、ちゃんと他の男を警戒してくれピョン、という言葉とともに深津の唇が降ってきて、私は目を瞑りながら頷いた。