各クラスで最後のホームルームが終わり、徐々に廊下に人が増えてきた。アルバムへの寄せ書きをしたり、写真を撮ったり、みんな思い思いに高校生活最後の時を過ごしている。
とは言え、ほぼ男子校の工業高校。クラスメイトとの別れを惜しむより、さっさと部室へ向かう人の方が多そうだ。
同じクラスの深津の姿を探して教室を見渡してみたけれど、さっきまで確かにいた彼の姿が見つからなかった。
「、深津と話せた?」
「ま、まだ…」
「もう体育館行ったんじゃない?さっき河田と松本が並んで歩いてんの見かけたよ」
「そ、そっか…でも、もう…」
「何言ってんの! もう最後になるかもなんだから!」
「う…」
深津の第二ボタンが欲しい。
ベタだけど、そんな気持ちを他のクラスの友達にこぼしてしまったのは自由登校になる直前だった。今まで誰にも言えなかった気持ち。言うつもりもなかった気持ちが、抑えきれなくなってしまって、恋バナに巻き込まれた時に誘導尋問に引っかかってしまった。
3年間クラス替えがないこの学校で、1年生の時から深津のことが好きだった。クラス内唯一の女子として、クラスの誰とでも気兼ねなく話せるポジションに自然とおさまった。みんな優しかったし、それは深津も例外ではない。だからこそ、一歩踏み出して関係が変わるのだけは絶対に避けたかったのだ。
「もう明日から会うこともないんだから、今日振られたって何も気にすることないじゃん!」
「う、うん…」
「当たって砕けろ!いけ!!」
「う、うぅ…」
なんでそんな砕ける前提の応援なんだろう。そう突っ込みたかったけど、緊張していてうまく言葉がまとまらない。
この後合流するお店を確認して、門に向かう友達と別れて反対方向の体育館へと足をすすめる。
いろんなところで色んな部活が集まって先輩の追い出しをやっているらしく、拍手がちらほら聞こえてくる。
最後の角を曲がったとき、自動販売機の前にひときわガタイのいい男子生徒がいた。
「…かわ、た…」
よく見れば、その隣に松本がいるし、深津もいる。
「じゃねーか」
「卒業、おめでとう」
「ははっ、おめーもな」
「今からバスケ部で集まる?」
「おう」
「、河田に用があるピョン?」
「…っ、あ、えと、」
深津にまっすぐ見つめられて、うまく声が出せない。
いや、でも、言わなきゃ、
「…ふ、ふか、つに…」
ククッと小さく喉を鳴らした河田と、松本が深津に手を挙げて歩き出す。その2人をちらりとも見ず、でも深津が手を挙げる。
「何の用ピョン」
「…え、と、その…」
「……」
「……」
「…用がないならもう行くピョン」
「っ!!」
表情ひとつ変えずに、深津が私を見下ろす。
不思議と威圧感は無く、もう行くと言いつつ動き出す気配のない深津の優しさを感じる。
そういう意外な優しさにどれだけ心を支えられてきたかわからない。この3年間、いつだって冷静で穏やかな深津に何度も助けられてきた。
「3、年間、」
「…」
「ありがと、う」
「…こちらこそ、ピョン」
「それ、で、」
「…」
「記念に、その…、」
「…」
「ボ、ボタンがほしいのっ!」
…しまったー!第二ボタンって言えなかったー!!
なんとか言ってしまってから、大事な言葉が抜けたことに気づいて頭が真っ白になる。
いや、でも、そんなまわりくどい告白をするより、とにかく記念にどこかのボタンがもらえるだけでいいのかもしれない。
「…」
「はいっ!?」
第二ボタンと言えなかったことでプチパニックになっていた私は肝心の深津の反応をまったく気にしていなくて、名前を呼ばれてあわてて深津の顔を見る。
いつもと変わらない深津の表情。
「どこのボタンでもいいのかピョン」
「っ!?」
え、いや、そんなことわざわざ聞くって、え、いや、そんな。
深津が私の方に歩いてきて、距離が縮まる。
私の目の前に立ったと思ったら、
「どのボタンがいいのか、教えてくれピョン」
深津に手首をつかまれ、引き寄せられた。
「1番上か?それともこっちピョン?」
「あ…え、」
順番に私の手がボタンに添えられる。
3年間、実習でやり方を教えてもらう時なんかに近づいたことは数えきれないほどあるのに、制服姿の深津がこんなに近かったことなんてなくて、心臓が破裂しそうだ。
「…こ、これ、」
「…2番目、ピョン?」
「そう…」
人差し指で触れるとチロチロと動く、校章入りのボタン。3年分、少し傷もついたボタンが日差しを受けてつやりとしている。
「どういう意味かわかって言ってるピョン?」
「…っ!?」
「お前はたまに抜けてるから、確認したいピョン」
「なっ、ぬっ…かくっ…!?」
まさかそんなことを聞かれると思っていなくて、私は目を見開いてぽかんと深津を見上げる。
「…っ、」
「どうなんだピョン」
「……ってるでしょ…」
「聞こえないピョン」
「わかってるに決まってるでしょ!!」
恥ずかしさと、もうどうにでもなれという気持ちで鼻の奥がツンとしてくる。深津に手を掴まれたままそう叫んでも、深津は表情ひとつ変えない。どうなってんのよこの男は。
「俺のことが好きだけど、もう卒業して会わないだろうから、記念に第二ボタンが欲しいってことかピョン」
「…っ」
「いやだピョン」
「っ!!!」
わかってると叫んだ時の勢いはどこへやら、私が言いたくても言えなかったことを言葉にされて絶句する私に、間髪を入れずに深津が拒否の言葉を口にする。
鼻の奥のツンとした感じがますます強くなって、みるみる私の目に涙があふれる。だめだ、こんなとこで泣いてちゃだめだ。泣くな、私。
「記念ってなんの記念だピョン」
「そ、れは…」
「俺は高校卒業の日を、と最後に会う記念の日なんかにするつもりはないピョン」
「…?」
深津が私の手首をつかんでいた手を放して、そのまま目尻の涙を拭う。
「卒業したらもう会わないつもりかピョン」
「だって…」
「毎週末こっちに帰ってくるピョン」
「え…」
「たまには俺の家にも泊まりに来いピョン」
「…え…?」
「春から一人暮らしだから、遠慮する必要ないピョン」
「な、なに言って…?」
4月から関東の大学に進学する深津と、就職して、大企業ではあるけれど地元配属が決まっている私とでは、生活環境がまったく異なる。
深津は何もかも新しい世界に飛び込んで、新生活を始めるのだ。
「勝手に人との関係を終わりにして記念品をつくるなピョン」
「…え、春からも、また、会えるの…?」
「だからそう言ってるピョン」
「…それは、つまり…?」
「…」
「ちゃ、ちゃんと言ってよ…!」
今度は私が深津の腕を掴む番だ。
一瞬だけ深津の目線が動いた後、まっすぐ見つめられる。
「」
「好きだ」
「ボタンなんかもらって終わりにしようとするなピョン」
相変わらず表情ひとつ変えずに、淡々と深津から思いが告げられる。
現実味がないのに、深津の学ランを握っている感触は確かで、吹きつけるまだ冷たい風が熱い頬を冷やす。
「俺もの口から聞きたいピョン」
「え…?」
「好きって言えピョン」
「深津、好き」
「…っ」
深津への気持ちが溢れすぎて、恥ずかしさなんて吹っ飛んでいた私は促されるままに言葉を紡ぐ。
まさか素直に言うと思っていなかったらしい深津は、今日初めて一瞬だけ目を見張り、口元を隠した。
「…なかなかやるピョン」
「好き、深津、好き」
「わかったピョン。だから泣くなピョン」
親指では拭いきれないくらいの涙を、深津が学ランの袖で拭う。
「もっと違う記念日に、もっといいものを渡すピョン」
「な、なにそれ」
「…今はわからなくていいピョン」
あふれる涙を拭い、そのまま深津が私の鼻をつまむ。
「このあと、駅前のマック行くピョン?」
「え、そうだけど、」
「そのあと、なんか予定あるのかピョン?」
「ないけど…」
「じゃあ、部活の奴らと飯食べたら行くピョン。待っててくれピョン」
「う、うん…」
「悪いが、これだけ持って行ってくれると助かるピョン」
「う、うん、いいよ」
ありがとうピョン、と言いながら深津が私の頭を撫でる。その顔が、今まで見たことがない優しい顔をしていて、また私の心臓が高鳴る。
「じゃあ、またあとでピョン」
「う、うん、部活、楽しんでね。ゆっくりしてきて」
「ありがとうピョン」
体育館の方へ歩いていく深津の背中を見送りながら、私は自分の荷物を肩にかけ、深津の荷物を抱きしめる。2人分の荷物を持っていることを、この後友達に散々突っ込まれるんだろう。
ゆるみきった頬を引き締めて、私は3年間慣れ親しんだ校舎に一礼すると、正門へと向かった。