深津と別れて2年。
高校1年の終わり、あんまり恋人らしいことはできないけど、それでもよかったら付き合って欲しいと言われて、覚悟を決めて付き合い始めた。
それから2年。私たちは関東の大学に進学した。相変わらずバスケットボールに打ち込む深津と、バイトやサークルというキャンパスライフを楽しむ私との間にすれ違いが起きるのはあっという間だった。
今までは同じ学校だったのが新生活では別々の大学というのも、2人の距離を引き離す一因ではあったと思う。日常の共有ができないというのは、思いの外堪えるものだったし、目の前にある楽しみに逆らえるほど私は成熟していなかった。…正直、深津はどうだったのかわからないけど。
就活の時期を控え、リクルートスーツに身を包んで大きいターミナル駅のカフェでアイスカフェオレに刺さるストローを咥える。
今日は説明会だけだったけど、朝からスーツにパンプスでクタクタだ。ひと息ついたら、また学校の図書館に戻ってレポートのための参考文献を借りなくては。その後はバイトだ。ストローが鈍い音を立てたのを聞いて、口を離し、眺めていたスケジュール帳をパタンと閉じて鞄にしまう。
1人用の高めの座席から降りたところで、2人がけの席に大きめの荷物を置いている男性に目がとまった。似たような背格好の人を知っている。
その男性が顔を上げて、視線がまっすぐ私を捉えた。
「…深津!?」
「……久しぶり、ピョン」
似たような背格好の人、はまさにその人で、私は思わず大きな声をあげてから口を押さえる。
なんでなんでなんで。別れてから2年、一度も街で会ったことなんてなくて、やっぱり世界は狭いようで広いんだな、なんて思っていたのに。
「深津くん」
「ここ、席取った」
「ありがとう」
2人がけの席のテーブルに、女性がドリンクの2つ乗ったトレイを置いた。
見つめ合う私と深津を見比べて、何か聞きたそうな表情を浮かべて深津を見上げる。
「高校の、同級生」
「そうなんだ!すごい偶然だね」
どう、きゅう、せい…?…確かに、私は、高校の、同級生、だね。嘘じゃ、ない。え、でも、そんな、ひとことで終わるような、?
頭の中が真っ白になって、呼吸がうまくできなくなる。ていうか、深津、なにその喋り方。私にはピョンって言ったのに、なにカッコつけてんの?え、彼女の前だからカッコつけてるってこと?まぁそりゃあ私と別れてから2年だし、彼女の1人や2人いるだろうし、私だって、そりゃあ、彼氏の1人くらい、ねぇ。
表情筋に脳の神経伝達物質がうまく届かないようで、口元がひきつって動かない。それでも、なんとか口角をあげて微笑みを浮かべる。
「びっくりした、じゃあね」
「あぁ」
トレイを持つ手が震えないように、指先が白くなるくらい力を入れて、荷物を肩にかけ直す。私には目もくれず、彼女と向き合っている深津を視界の端から必死に追い出し、食器の返却口を目掛けて必死に足を動かした。
2年ぶりに深津に会ってから数日後、レポートの仕上げを終えて図書館閉館ギリギリに大学の門を出る。
久しぶりに深津の姿を見てしまったことでいろんなことを考えてしまって、全然生活に集中できない。あとは文献を引用して細かいところをまとめるだけだったのに、随分時間がかかってしまった。
…未練なんて、もうとっくにないつもりだったのに。
不意に、視界の端にまたも見たことのある坊主頭が目に入った。
「深津!?」
「3日と7時間ぶり、ピョン」
見覚えのあるスポーツバッグにジャージとパーカー姿。どうやらバスケの練習終わりらしい。
記憶の中では真新しかったスポーツバッグはだいぶ使い込まれていて、深津の立ち姿によく馴染んでいる。秋田で一緒に選んだバッグだ。まだ使ってくれていたなんて、物に罪はない派なんだろう。
「な、なにしてんの…ストーカーみたいなことして…」
「人聞きが悪いピョン」
何回か電話したんだピョン、と憮然とした表情で深津がつぶやく。
どうやら、カフェでばったり会ったあの日から、何回か電話をくれていたらしいが、全然繋がらないので大学まで会いにきてみた、ということだった。
「ストーカーじゃん!」
「さすがに家に押しかけるのはやめといたピョン」
いや、多分深津の性格的に、何回か大学で会えなかったら家まで来てたな…?
「、今日、なんか予定あるピョン?」
「ううん、今日は何もないよ」
「じゃあ、まずは飯でも行くピョン」
「…え!?ちょ、ちょっと!?」
慣れた様子で駅までの道を歩き出す深津。
突然の再会からの流れに全然ついていけず、混乱したまま深津を追いかける。
え、てか、「まずは」って言った?その後何があるんだろう?
久しぶりの深津は、相変わらずマイペースなところがあって、振り回され気味だ。でも、会いに来てくれて嬉しい気持ちが自分の中にあることにも気づいている。
深津は、どういうつもりなの…?
そのままたわいもない話をしながら駅前の定食屋さんで晩ご飯を食べ、深津が少し話がしたいと言うのでカラオケに行くことにした。
座って落ち着けるし、人目がないし、でも監視カメラがちゃんとあるから、友達の間では別れ話に向いていると言われている。…私たちの2年前の別れ話は、私の部屋だったな。
「3日前は、驚いたピョン」
「ね、」
何となくテーブルを挟んで離れた位置に座る。
付き合ってた時は、ふたりでカラオケに来たことなんて、なかった。
薄暗い部屋で、深津の表情がよく見えなくて少しだけ緊張してしまう。
「あのとき、」
「?」
「どうして泣きそうな顔してたピョン」
「…え、?」
深津がまっすぐこっちを見ている。
いたたまれなくて、テーブルの上の目次本の角をいじる。
「ふらふらしながら出てくから、心配したピョン」
「そんな、」
ふらふらなんて、してないよ、と言い返すが、それこそ「ふらふら」な言い方になってしまった。
深津に、こんなのが通用するわけ、ない。
しばらくの沈黙の後、私はようやく口を開いた。
「…だって…高校の同級生、て…」
「ん?」
「わたし…ただの、同級生だったのかな…って」
「あぁ…」
そういうことか、と深津がふぅ、とため息をつく。
「…言いたくなかったピョン」
元カノって紹介したら、本当に元カノになってしまう気がして、だなんて。
「な、にそれ…だって、元カノ……じゃん……」
最後の方は声にならない。元カノ、確かに声に出して言ってしまうと自分でも思った以上の衝撃がある。もう2年も経ってるのに。
「泣くなピョン」
困ったような声色で、いつの間にか隣に来ていた深津が私の頭を遠慮がちに撫でる。2年分の距離がそこにはあって、ますます涙が止まらない。
あぁ、私は、いったいどこで。
「…っ、わた、し、……っ、どこ、で…っ、」
「?」
「まちがえ、ちゃった、っ、んだろう…っ、…!」
「…」
自嘲気味に深津が小さく息を吐く。
「は何も間違ってないピョン」
「…っ!」
「間違えたのは、に甘えすぎてた俺の方だし、別れ話を受け入れた俺の方ピョン」
あの頃よりも落ち着いた、穏やかな大人の声で、深津が優しく言葉を紡ぐ。それがもう今後私に向けられることはないんだと思うと、悲しみが体の奥底からわきあがって、心も体も埋め尽くしていく。胸の奥から重いものがせりあがってきて、気分が悪くなる。
顔を覆ってふるふると首を横に振ると、深津の手が引っ込められた。こんなに泣いたってどうしようもないのに、いい加減呆れてるだろう。
ゴシゴシと目元をハンドタオルで拭い、顔を上げた。
いつもの表情で私を見つめる深津の心情は、はっきりとはわからないけど、少なくとも迷惑そうな顔はしてなくて少しほっとする。
「ごめん、ありがとう。久しぶりに話せて…よかった」
「まだ本題が終わってないピョン」
「へ?」
時間も時間だし、帰りを促そうとした私を遮って、深津は話を続ける。
そんなにすぐにはとまってくれない涙が、じんわりと私の目尻を濡らしていく。
「さっきも言ったけど、2年前、俺は間違えたピョン」
「というか、間違えた気はしてたけど、間違ってないと言い聞かせてきたピョン」
「でも、この間に会って、はっきり間違えてたってわかったピョン」
「間違いは、訂正する必要があるピョン」
「やっぱり、別れたくないピョン」
はい?
「…え、いや、え、だって、もう私たち…」
「別れたくないピョン」
「だって深津、この間の彼女は…?」
「俺の彼女はだけピョン」
「!?」
いやいやいや、まてまてまて。
確かに別れたよね?私たち。
だって現にこの2年、一度も連絡取ってないし、私他の人と付き合ってた期間あるし。
「…まさか、他の男と付き合ってるピョン?」
「いや!今はいないけど!」
「…今は?」
「えぇ!?だって私たち別れてたじゃん!」
まるで浮気を責められているかのようなトーンに、私は慌てて言い返す。
いつの間にか涙もとまって、私は呆然とするしかない。
「…まぁいいピョン」
深津が腕組みをしてジッと私の目を見据える。
「誰かと比べることも大事ピョン」
「はぁ…?」
「俺もまったく誰とも付き合ってないかと言われればそんなことはないピョン」
「な…!」
私以外に深津の恋人を名乗る女の子がいたことをはっきり断言されると、カアッと頭に血が昇るのがわかった。いや、そんなの、もちろん別れてる間のことだし何も言う権利はない。今さっき自分が深津に言ったことがブーメランで刺さる。わかっているのに、ドクドクと心臓の音がうるさい。
「一瞬でも付き合ったその子には申し訳ないけど、俺にはしかいないってよくわかったピョン」
「…」
引っ込んでいた涙が、お呼びですかと言わんばかりにうずうず顔を出そうとしている。
泣きたくない、深津の顔をちゃんと見ておきたくて必死に押し留めるのに、逆に深津の顔を見ているだけでどんどん泣きそうになる。
なんで、なんでそんな、優しい顔してくれるの?
「もう一度、俺と付き合って欲しいピョン」
「もう二度と間違えないし、間違えさせないピョン」
「俺はまだのことが好きピョン」
昔、付き合ってほしいと言ってくれた時と同じ深津が、そこにはいた。
まっすぐ私の顔を見つめる、照れやごまかしのない、真剣な表情。無表情とは少し違う、何かに集中している時の深津の顔。自分の発言には責任を持つ、そんな深津の覚悟を感じる。
「、」
深津の胸に顔をうずめて、ただただ泣きじゃくる私の頭に、深津が優しく手を添えた。さっきの遠慮がちな触れ方ではない。そんなことにも、どうしようもなく嬉しくなって胸が締め付けられる。
「…だよ」
「?」
「…すき…だよ、」
ぐずぐずの涙声で小さくつぶやけば、次の瞬間、顎が掬われて深津の顔がすぐ目の前にあった。
そういえば、別れる時も最後にってキスしたような気がする。
今考えれば、別れ際にキスするような二人が別れること自体、いろいろ間違えてるってわかるのに、あの頃の私たちは本当に何にもわかってないし、間違えてばっかりだったね。
2年ぶりの深津の体温を唇に感じながら、今度こそ間違えないことを、静かに心に誓った。